食わず嫌いを見直す方法
授業終了のベルが鳴ると同時に、加藤和樹は教室のドアを開けると、少し太めなその体を左右に揺らしボサボサの髪をかきながら廊下の真ん中を無理やり突き進み、校内の食堂へと向かっていった。途中、小走りだった加藤の体に逆方向から来る生徒の体がぶつかると、加藤はその生徒の方を振り返り睨みつけた。相手の強張った顔を確認した後、体を前へ向け再び目的地へと歩を進める。ついでに文句の一つでも言ってやろうかと思ったが腹の虫はすでに限界を告げていて、それどころではなかった。
食堂へ着くと加藤は焼肉定食をトレーに乗せ自分の指定席へと座り食べ始める。箸を器用に動かしながら白米と肉を食べる。瞬く間に茶碗の中身は無くなり皿の上の肉はラスト一枚。それを飲み込んで加藤の食事は終った。
ふう、と息をつき、右の壁にかけてある時計に目をやる。昼食の時間はまだ十分残っていた。加藤はズボンの右ポケットから携帯を取り出し画面を開く。そして最近熱中しているゲームでもやろう、とゲーム画面を起動させた。と同時に、横から声がした。
「隣の席、良い?」
女の声。そこには長瀬真弓が立っていた。加藤は少し戸惑ったが
「ああ、別に誰も座ってないし」
と答えた。じゃあ座ろうか、と言って長瀬は後ろにいた友人と一緒に席につき、手に持っていたトレーを置いた。白米に焼き魚、サラダが皿にあった。加藤はサラダの鮮やかな色を見るのが耐えられなくなって、すぐに携帯の画面へと目を移した。
「キャベツ、残ってるよ」
一瞬、反応に困ったが加藤は横目で長瀬の方を見る。その視線は明らかに自分の皿へと向いていた。驚く間もなく、長瀬と目が合う。固まっている加藤におかまいなしと長瀬は首を傾げながら
「食べないの?」
と聞いてくる。ふと、加藤は肉のあった皿、今はタレで茶色く変色した細長いキャベツしかない皿を見る。胸の辺りがグッと締め付けられるように苦しくなる。
「別にいいだろ、そんなの」
「えっ?」
加藤は携帯画面を無理やり閉じ、その場に立ち上がると、トレーを持って返却口へと向かった。そして、早足で食堂を後にした。
しばらく廊下を歩いていた加藤は携帯で時間を確認する。いつも昼を過ごしているはずの食堂には戻れないし、またゲームをする気にもなれない。校内を歩き回るのもつまらない。かと言って教室にも行きたくはない。加藤の足は自然と屋上へと向かう階段を上っていた。
固い戸をこじあけ、広がるのは雲ばかりの空とどこまでも伸びる地平線。天に向かっていくような錯覚を起こしながら加藤は手すりへと近づく。そしてそこへ寄りかかるようにして、空を見上げた。青色を消されてしまった空は笑顔さえも閉ざしてしまっている。少し湿っていたが、胸くそ悪さを消し去るには十分な風。目線を下に下げる。新緑の木々が立ち並んでいるのを左から右へと目を移していった。ちょうど真ん中を差し掛かった頃、けたたましい音が加藤を現実へと引きずり戻した。
部活に所属していない加藤は雨が降り出す前にと早足に学校から駅へ向かった。定期を使って帰宅方向への電車に乗り込む。一年間同じ道順をたどっているとさすがに慣れた。車内をいちべつすると加藤は、空いている席に座らずに、電車のドアから流れる景色を見ていた。
三駅ほど行った後、加藤はホームへと降り立った。そして改札を通り、駅の階段を下りる。小さな商店街。いつ潰れてもおかしく無いような古本屋。そこは加藤のよく知っている風景が立ち並んでいた。当たり前だ。今までの十五年間はここで生きてきたのだから。本来ならば駅前に出来たまだ新しいコンビニにでも行って適当に雑誌を読んで時間を潰すのが日課なのだが、この黒い空を見るとそんな気も失せてしまった。加藤は頭をかきながら、しょうがないか、と空に訴えかけ、重い足取りで歩き始めた。
自宅に着くと、加藤の体は吸い込まれるようにソファへ、そしてそのまま眠りへと落ちていった。しばらくして目が覚めたのは何か不気味な音が聞こえたから。寝ぼけ眼を目でこすって音のする方を向く。携帯が不気味な色彩を放ち、振動音を鳴らしている。加藤は強引に携帯を開いた。メールだった。携帯の画面には「加藤和葉」―――和樹の母親からだった。加藤はゆっくりとメールを開いた。
「今日は遅くなるのでご飯は食べておいて下さい。お金はテレビの上です」
加藤は携帯を閉じてテレビの上を見る。そこにあった樋口一葉を手に取った。携帯と樋口一葉を、加藤はそれぞれの手に持ち、見比べる。そして、携帯を無理やり閉じ込め、ソファの上に叩きつけた。
今日は食べに行く気も買いに良く気も無かった。結局、加藤は数あるメニューの中からそばを選んで注文した。しばらくして、ピンポーン、と来客者を告げるチャイムが鳴った。その時まで活動を停止していた加藤の大きな体が動き出し、足取り軽く、空腹を満たすべく、樋口一葉を持って玄関へと向かった。勢いよく扉を空けるとそこには加藤と同じくらいの背格好の男が立っており手にはトレーに乗せた商品を持っていた。
「お待たせしました。600円になります」
待ってましたとばかりに加藤は札を男に渡す。引き換えに男のトレーを受け取った。その瞬間和風のスープの匂いがラップ越しに鼻をくすぐった。思わず微笑む。男はポケットから財布を取り出してお釣りを用意している。
「はい、ではお釣りの4400円…あれ?」
男の声が、驚きに変わった。おかしいと思った加藤は男に目をやる。
「お前、加藤じゃないか?」
よく考えると、確かにその声は聞き覚えのある声だった。記憶の奥底からその声の主を探す。いた。一人、該当する奴が。その人物の名前を加藤は言う。
「もしかして…カズヨシか?」
カズヨシと呼ばれた人物は縦に何度も首を振った。
「そう、小杉だよ!小杉和義!懐かしいなぁ。また太ったんじゃないか?お前」
「お前こそ、全然変わってないくせによく言うよ」
小杉和義は加藤と中学が同じの同級生。現在は違う高校に通っているのでめったに会わないが、中学時代は仲が良かった。それと言うのも、二人には色々と似ている所があったからだ。名前から始まって趣味、好きな本、映画、音楽、色。運命の赤い糸で結ばれているのではないか、と思うほど共通している部分が多い二人はすぐに意気投合した。
二人はしばらく玄関先で互いの近況を話していた。最近どうだとかテストがもうすぐだとか中学の同級生の服部がまた振られただとか。加藤はそんな他愛も無い話をしているこの雰囲気が好きだった。やはり、話しなれている奴との話は良い。そう加藤が思っていると、小杉が突然聞いてきた。
「加藤さ、新しいクラスもう慣れた?」
加藤がうつむく。それを見て小杉は
「俺はまだ。一年のときは知ってる奴がいたから良いけど、二年は全員知らない奴ばっかで」
「俺も」
加藤が続ける。
「俺も、全然で。なんていうのかな。自分だけが浮いてる感じ?わかっちゃいるけど、馴染めないって言うか…うん」
「そっか」
間髪いれず、小杉が続ける。
「あのさ、真弓ちゃんって今どうしてる?お前、同じ高校だったよな?」
真弓。長瀬真弓。ふっと、昼の出来事が思い出された。加藤が嫌な顔をしたのが小杉にばれたのだろうか。顔にハテナマークが浮かんでいる。とりあえず加藤は
「フツーだよ。フツー。クラス違うからたまに会うくらいだし」
ふーん、と小杉は返す。顔はまだ納得した表情では無かった。
「じゃあさ、彼氏とかいたりするのかな?真弓ちゃん」
「はあ?」
「だってさ、普通の高校二年生だったら一回くらいはそういう経験するはずだろ?」
ストレートすぎる発言。でも、加藤はそういう小杉が嫌いじゃなかった。
「そういう噂は聞かないよ。まあ、いないんじゃないか?」
「本当にか?」
「うん。でも、あの様子じゃ出来ない気もするけど」
「あの様子?」
加藤は昼の出来事を話した。小杉の事だから笑って答えてくれるだろう、なんて事を思っていたのに、話している途中から小杉の表情が曇っていった。加藤はこの予想外の反応にどう対応して良いのかわからなかった。小杉はまだ顔をしかめている。間の悪い沈黙が流れる。それを破ったのは、加藤。
「まあ、どうでもいいよ。食わなかったからって死ぬわけじゃないし」
「どうでも良いって事、ないだろ」
小杉の顔は先ほどのものよりはっきりと読み取れる。怒っている。あの小杉が。驚きを隠せない加藤は失笑を交えて、どうしたんだよ、と尋ねる。
「そろそろ帰るわ。もう遅いし。うちのバイト先の親父さん、怒ると怖いんだよ」
小杉は加藤に背中を向け、歩き出そうとした。しかし、動きが止まったのを加藤は見逃さなかった。小杉は体を斜めに、顔をこちらに向けて
「なあ、加藤」
「ん?」
「お前さ、その…」
小杉はうつむいて何か考えているようだった。目が合うと、口を開いた。が、すぐに閉じてしまった。
「なんだよ」
「あのさ、そば。…冷めてたら、ごめんな」
「いいよ、気にするなって」
家に入った加藤はそばを乗せたトレーを居間に持って行き、テーブルの上へ置いた。サランラップがかけられたそばの器はまだ熱を帯びている。しかしサランラップを取ると湯気がほとんどなかった。加藤は独り、そばをすすった。案の定、そばは微妙な温度を保っており、スープも生ぬるく、油揚げも同じだった。加藤は黙々とそばを食べた。器の中身が空になると加藤は箸を合わせて、言った。
「ごちそうさまでした」
翌日、加藤はいつも通りの道を行き、いつも通り授業をこなし、いつも通り昼を迎えた。そうだ、これが俺の日常。昨日が異常だっただけ。ただ、ツキが無かっただけだ。六限目も終わり、帰りのホームルームを迎えた。起立、気をつけ、礼、サヨウナラ。
そんな今日の『通常』もツキに見放された。校舎から出て数分たっただろうか。雨が降ってきた。でもそんなに強くも無く、粒も小さいので大丈夫だろうと思っていた。しかし、駅に着いた頃に本格的に大降りへと変わっていた。昨日結局降らずに終わった雨が今日に持ち越しになったような、土砂降り。加藤は天を仰いだ。そして、思った。
―――ツキは、まだ俺を嫌っているのか。
とりあえず加藤は自分の駅へと向かった。到着すると電車から降り、ホームから改札へ歩いていく。途中、切符売り場で雨に濡れて服が変色している人とすれ違った。雨で濡れた靴と駅の床の音が接触する共鳴音のようなものが辺りに響いている。まだ雨が強いのだろう。そう悟った加藤は小さなため息をついた。
「どうするかな…」
独り言を呟く。雨の中突っ込んで家まで帰る、だなんて小学生の考えだ。かといって雨が止むのをずっと待っていたのではいつ帰れるかなんて分からない。これがもし学校から降りだしてくれたなら誰かの置き傘を借りていけばいいだけなのに。全く、雨もタイミングってやつを知らない。迷ったあげく加藤は日課に従う事にした。コンビニまでだったらそれほどまで濡れないし、暇つぶしにもなる。止まないのであれば面倒だけれどビニール傘を買えばいい話だ。加藤は階段の一段一段をゆっくりと降り、地上へと向かった。
階段付近のアスファルトは屋根があるせいで濡れていなかったが、すぐ先にあるものはどす黒く染まっていた。雨足の強さを実際に見ると、正直怖気づいてしまった。近くにあるはずのコンビニは霞んで見える。止むまでもう少し待ってみるか。
ふと、天井を見上げると鳥の巣があるのを見つけた。雨音にかき消されて気づかなかったが、何匹かヒナの鳴き声がする。きっと、腹を空かせて親鳥を呼んでいるのだろう。でもこの大雨じゃ帰ってくるに来られない。かといって自分でエサを取りにいけるはずも無い。このヒナ達はただ、いつになるか分からない親の帰宅を待つ事しかできないのだ。もしかしたら帰って来ないかもしれない、親の帰宅を。ヒナのなき声に聞き入りながら、加藤はじっと、巣の中のヒナを見つめていた。
急になき声しか聞こえなかった世界が一転して、雨音の世界に変わる。誰かが肩に手をやっているのに気づいたからだ。その手の先の方へ恐る恐る首を動かす。加藤と目が合うと手の主は口元を緩ませ
「びっくりした?」
と尋ねてくる。
「何だよ、長瀬か」
苦笑交じりに、加藤は言った。内心、加藤はホッとしていた。
「何してるの?」
「別に何も。雨宿りしてただけだよ」
そう言いながら加藤は辺りを見渡すと、先ほどより人が増えている事に気づいた。そこまで真剣に見ていたのか、と自分に気恥ずかしさを覚えた加藤は、会話を続ける。
「長瀬こそ、何でここにいるんだよ」
「何でって、いつもここの駅を使ってるから」
「そうじゃなくて。部活は?」
「テスト前だから部活はお休み」
「ああ、なるほどね…」
「それより加藤君、勉強してるの?」
何でそんな事聞いて来るんだ、と思ったがとりあえず、続けた。
「俺だって勉強してるつもりだよ。でも、いつも結果が全然で」
「じゃあ点数取れる方法、教えてあげようか?」
長瀬の言動に不信感を持ったが、ああ、と加藤はうなずく。
「それはね『食わず嫌いをしない事』かな」
「食わず嫌い?」
「そう、食わず嫌い。加藤君、嫌いな教科とかあるでしょ?」
「ああ、あるけど。それがどうしたんだよ」
「何でそれが苦手か、自分でわかってる?」
加藤は首を振って、言う。
「第一理解できないからさ、嫌いなものは」
「それ」
同時に長瀬が人差し指を加藤に向ける。
「理解できない、じゃなくて『理解しない』じゃないの?それが食わず嫌いだよ」
「勝手に決め付けるなって。それに意味不明だしさ」
「じゃあもう一つ聞くけど、なんであの時キャベツ食べなかったの?」
出た。長瀬の悪い癖。呆れた加藤は、目線をそらす。それが長瀬には逃げているように感じた。
「それって、食べず嫌いじゃないの?野菜嫌いの典型的な例だよ」
「違う」
加藤は反論する。
「俺はさ、あのキャベツの色も、味も、匂いも、全部嫌いなんだよ。食べず嫌いじゃなくて、ただ単に『嫌い』なだけ。分からないだろ、お前には。野菜嫌いの奴の気持ちなんか」
「うん、全然分からないよ。あんなに美味しいのに、なんで嫌いなのか。でもね、それはそれで良いと思う」
「矛盾してないか?何か」
「私が言いたいのはね、嫌いなら嫌いで良いと思うの。人によって好みは違うし、別に無理して好きになる必要なんて無い。でもね、私は食わず嫌いが一番嫌なの。見た目だけで判断して、その味を理解しようともしないで捨てたりするなんて、最低」
長瀬が続ける。
「だから、キャベツが嫌いならそれでいいの。世界史が嫌いならそれでいいの。でもね、ちゃんと理解する努力もしないのに、嫌いなんて言って欲しく無かった。特に、加藤君には」
「何で俺が出て来るんだよ、そこに」
「あれ?自分が一番分かってるはずじゃない?」
加藤は、長瀬が何を話そうとしているのか、分からなかった。何をだよ、と長瀬に先を促す。
「今朝ね、小杉君に会ったの。偶然、ね。昨日加藤君と色々話したって言ってて何か心配だから見てやってくれって頼まれたの」
長瀬は思わず笑みを浮かべる。
「加藤君って、クラスじゃ暗いんだね。F組に部活の友達がいるから聞こうと思ったのに全然知らない、なんて言われちゃって。もっと話してみればいいのに、クラスの人と」
「どうせ喋っても意味ないだろ」
「ほら、それが食わず嫌い。良いじゃない、別に。意味があるかないかなんて分かる事じゃないよ。話してみれば案外気が合う、って事も少なくないし。それに、色々な人と話せて楽しいと思うよ」
「簡単に言うなよ。それって案外難しいぞ?」
「難しいと思うから難しくなるんじゃない。皆、変な先入観を持つからそれに抵抗ができちゃうんだよ」
「じゃあどうするんだよ」
「そんなの簡単。考え方を変えればいいだけだよ」
「考え方?」
「世界三大珍味、ってあるでしょ?皆美味しそうとか思ってるけど、あれってあくまで珍味であって絶対に美味しい訳じゃないんだよね。だからそれと同じ発想をすればいいんじゃない?」
「キャベツを世界三大珍味にしてみろって?なんだそりゃ」
「これは珍しい食べ物だから今食べないと二度と食べられない!とか一度くらい試してみよう、って思えばいいの」
「そんなに上手くいくのか?それ」
「それは加藤君次第。食べるのは私じゃないからね。…あっ」
長瀬の目線を追うように、加藤は外を見た。随分と話し込んでいたのだろう。先ほどまでの土砂降りが嘘のように、雲の色は大分白くなり、隙間からは光が挿してきていた。
「じゃあ私、先に帰るね」
長瀬はコンビニのある方角とは逆方向を指差した。加藤はああ、と言って左手を上げ
「じゃあな」
と言った。長瀬もそれに笑顔で応じ、手を上げる。長瀬が前へ向き返ったのを確認した加藤は、空に目を移す。日の光が先ほどよりも眩しくなっているのを感じた。思わず、目を閉じてしまう。
「…俺も帰ろうかな」
そう自分に言い聞かせ、動き始めようとした瞬間、頭上の鳴き声が激しくなったのを聞いた。二、三歩ほど戻って巣を見てみると、親鳥が巣に戻っていた。ヒナは親鳥が持ってきた餌に喜びの声をあげながら夢中になっている。そして餌がなくなると親鳥は再び巣を離れた。ヒナはまた声をあげる。加藤はそれに微笑する。始め低空飛行を続けていた親鳥は、上昇気流を見つけると空高く舞い上がって行った。その背中を目で追う。しかし、太陽と重なったせいで親鳥を見失ってしまった。
加藤は巣を見る。そして、中でないているヒナを見る。
「じゃあな」
ヒナに向かって笑ってみせた加藤は、一歩一歩巣から離れていった。