夏休み明けの初日、俺は日焼けのせいで皮がむけている二の腕を気にしながら気だるく学校へと向かって行った。久しぶりに着たYシャツと黒い制服のズボンのベルトが、きつい。
まだ眠そうな住宅街を抜け、車の多い車道の横を道沿いに歩くと小高い場所に出る。その角度のあるコンクリートの坂を上れば、俺が入るちょっと前に改築したと言う真新しい白をまとった校舎が目に入る。
中学2年生ともなるといくつか遊び方も覚え、出来ることも多くなったせいか夏休み中は遊んでいた記憶しか残っていなく、一番の思い出と言っても、顧問が珍しく張り切って行く事になってしまったテニス部の合宿くらいしかない。
受験だなんていう言葉は公立中学在学中の自分には未経験なものだったし、来年必死に勉強すればいいよ、とすれ違った参考書を片手に持つツインテールの背中を振り向きざまに見て思った。
校門の前では女子生徒が久しぶりに会った友人と会った嬉しさからか、騒がしく耳障りな高音を発していた。その超音波の方向に一歩一歩近づくのだが気持ちは一歩、また一歩と後退していく。俺の中じゃ、夏休みは終ってないのだから。
中学校の敷地内に入ると、私立校とまではいかないまでも、これが中学だろうか、といった感じを毎回受ける。正門からまず通るのは草が生い茂っている広い中庭、その真ん中にあるのはこの学校のシンボル的存在の大樹で、大抵のスポーツはできるであろう校庭、そして極め付けが眩しすぎるくらいの白をまとった4階建ての校舎が2棟ある。片方は教室棟のA棟、もう一方は職員室や実験室があるB棟になっている。
A棟に入ると外靴から上履きへと履き替え、かかとを床に2,3合わせると3階にある2年生の教室へと向かった。途中、校内女子ランキング(もちろん男子が勝手に作ったものだけど)でベスト5に入るほどの女子が男と並んで一緒に教室に入っていくところや、休み前までは見たことの無い柄の悪そうな連中が多いことに気づいて、また一歩気持ちが後退した。
俺のクラス――2年4組に行くのには階段を上がって廊下を3クラス分歩かなければならない。その間、俺は泥棒が人様の家にあがりこむような、よそよそしく他人行儀な雰囲気で歩いていたと思う。
そして俺は夏休み気分を諦め、クラスメイトが風変わりしていない事を心の中で祈ていた。
「お、ショーが来たぞショーが」
教室のドアに手をかけると、すでにクラス内にはいくつかのグループが出来ていて、騒いでいるのが見えた。その中の俺がいつもつるんでいるメンバーの一人、中川が俺に手を振っていた。
「お前、焼けたな」
ドアを閉め、中川に近づいた俺は笑いながら言った。中川の肌は、休み前までの病的な白いものが嘘のようにこんがりとしたきつね色に変わっていた。その張本人は少しムッとした表情になったのが、周りの奴らにもわかったようだ。
「こいつさ、東京の海に逆ナン狙いで行ったらしいぜ」
「マジかよ、で、結果は?」
中川のほうに目をやるが、首を横振りだった。
「全然ダメ。いかにもフリーです、って感じで一日中体焼いてても声の1つかからなかった。おかげで次の日は日焼けで死にそうになったっての」
さらに顔の色と同じ腕を、中川はまくって見せた。
「にしても焼けすぎだよな。日焼け止め塗らなかったのか?」
「すぐにお持ち帰りされると思ったから塗らなかったんだってよ」
中川が泣きそうな目で俺を見てくる。その目が消費者金融のCMの「アレ」みたいなのがおかしくて、噴出しそうになるのをこらえながら俺は、
「お前、本当に冒険家だよな。俺には絶対できないって」
と、フォローを加えた。
「違うよショー、こいつは冒険家なんかじゃなくてただ”バカなだけ”だって」
グループ内で笑いが起きる。中川はまた泣きそうな目を向ける。
―――もう無理、さすがにこれ以上フォローできない。
気づいたときには俺も、笑い声をあげていた。
「はい、座れー」
ドアの開閉音がなると笑い声は自然に止み、始業のチャイムが鳴っているのがわかった。担任が入ってきたのだ。
俺は後方にある自分の席へと戻った。その間俺はクラス内の変化がさほど無かった事を知って得た、嬉しさに似た妙なものを感じていた。
担任の話は古典的で、一言でまとめると「これからも頑張りましょう」といったつまらない話だった。そして、担任が左腕につけている腕時計を確認しながら2、3咳払いした。
「えー、では、夏休みの宿題を集めます」
クラス中からちらほらとため息があがった。無論、そのため息の一部には自分のものも含まれている。現に今、植野に借りた国語のプリントを写すのに精一杯なのだから。
「ですが」
担任の声のトーンが微妙に変わったのに気づくと、俺はペンを休め顔を上げた。
「今日から、このクラスに転校生が来る事になりました」
―――転校生?
夏休み後の転校生、というのも珍しい。いや、そうでもないか。いずれにせよ、期待はずれであろう事はなんとくながらわかっていた。
俺は再び顔を下に向け、先ほど日高に借りた数学のプリントを写すことにした。
「えー、では、入ってきて下さい」
またドアの開閉音。そしてチョークの音。きっと、名前でも書いているのだろう。今はちょうど方程式なんていうメンドクサイ問題なんだ。気にしてる暇は無い。
しばらく室内が静まって、黒板とチョークが奏でるコツコツ音が鳴っていた。おそらく、転校生が自分の名前でも書いているのだろう。
「えーっと、これはなんて読むのかな」
…だっせ。担任が漢字読めないのかよ。
「ウィリスです。ウィリス」
―――あれ?ちょっと待て?
俺は下げていた顔を急浮上させた。声でわかった。女だった。
そして担任とその隣には転校生と呼ばれたそれがいて、その後ろには黒板に書かれた彼女の名前―――「Nancy・早川・Willis」の文字があった。
クラスを前に会釈をしたその女子は、笑窪を作りながら言った。
「はじめまして。今日からこの学校に転校してきました、ナンシー・早川・ウィリスです」
そう。彼女の声は澄んだソプラノで、髪は少し茶色がかったミディアムで、小柄な体、少し高い鼻、小さい口、そして少し離れたこの距離からでもわかる薄いマリンブルーの瞳。
クラスの女子、いや、日本人のものとは違うような彼女の独特の雰囲気のせいか、知らず知らずの内に俺は、彼女に見入ってしまっていた。
俺は、心の中の靄が一気に晴れていくのがわかった。
そして、また俺の中に違う靄がかかっていく。
―――この感じ、何なんだろう。
俺の視野は次第に狭く、そう、明らかにただ一点のみを映し出していて、この感情を抱いたまま彼女だけを映すものになったとしても、もう未練は無い。そう言い張れる自信が今の俺にはあった。
「Nancy・早川・Willis」。彼女は今、転校生の宿命に追われていた。自分の机の周りを生徒に囲まれ色々な質問をぶつけられる「アレ」だ。
「ねーねー、早川さんってハーフなんだよね?どっちが日本人なの?」
「お母さんが日本人。お父さんはイギリス人」
「今はどこに住んでるの?」
「今は…三浦のマンションに暮らしてるよ」
「えー、じゃあ私の家の近くじゃん!」
「って言うかさ、ミドルネームって言うんだっけ?カッコイイよねー」
俺とは反対方向の席に座った彼女は一つ一つの話を丁寧に答えていた。しかし、彼女とクラスの女子のやり取りが、俺にはテレビ番組で見かけるリポーターと回答者のように見えた。興味本位で聞くリポーターと、笑顔で返す回答者。その笑顔はどこか辛そうな気がして、現に彼女の両手は緊張しているのか、膝の上で肘も曲げずに真っ直ぐ伸びていた。
「なーに見てんだよ」
急に後ろからのしかかってきた中川は、馬鹿にしたような笑顔を向けていた。
「べ、別に何も見てねえって」
「ずーっと視線がナンシーちゃんの方を向いてましたよー、ショーくーん?」
「そ、そんなワケ…」
と、否定したのだが、次第に紅潮していく顔は正直で、それ以上何も言い返すことはできなかった。
「お前はどうなんだよ、あの子は興味ねえの?」
「あー、俺は年上好みだから。確かにかわいいけど…なんか違うんだよ」
先ほどからの笑みを続けていた中川だったが、急に遠くを見るような目を彼女に向け始め、俺には中川の雰囲気が変わっていくように思えた。
「でもさ…何か、かわいそうだよな、ナンシーちゃん」
えっ、と俺が言うと、中川は続けた。
「だってさ、転校生って色々ワケありじゃん?なのにあんなに質問ばっかされてちゃ、そりゃあ、かわいそうって思うよ。興味津々な事にはとことん追求するって言うあいつらの悪い癖だよな」
ふうん、とそっけないように返したが、内心、俺も同じような事を考えていた。さんざん盛り上げてヒーローに祭り上げ、飽きたら捨てる。中学生、いや、世間はそんなもんだ。普通の転校生では無く、ハーフであるという話題性を持つ彼女も、興味本位という言葉で過剰に祭り上げられるだろう。少なからずとも、彼女は心無い言葉に傷つくかもしれない。
それを考えるだけで胸は締め付けられるようになるのだけれど、それは俺の「何か行動を起こす」という考えさえも締め付けてしまっていた。
中川に悟られないよう、俺は未だに質問責めにあっている彼女を見ながら心の中でため息をついた。
「お前、考え方が大人なんだな、意外に」
「じゃあ大人な中川君がショー君に恋のレクチャーをしてあげましょうか?」
「ふざけんな」
そういうと俺は中川に右のボディーブローを食らわせ、もがく姿をケラケラと笑ってやった。
そしてそのまま学校の授業も終わり、放課後になった。テニス部に所属している俺はいつもの通り中川と一緒にテニスコートへと向かった。テニスコートへは正門を抜けてすぐ左手にある。俺はコートを見た途端に、自分のラケットが無い事に気づいた。
「あ、悪い中川、ラケット忘れたわ。先行っててくれ」
「あいよ」
「ついでにカバンだけはよろしくな」
俺は中川にカバンを投げ渡し、教室へと戻った。ちなみに今日の俺のカバンはテスト前だから教科書の宝庫なはずだ。
靴を脱ぎ捨て、階段を2段飛ばしで駆け走り、3階に到着。そして小走りで教室へと戻った。もしやと思い、教室には恐る恐る入っていったのだが、誰もいないとわかった時には気が抜けてしまった。いや、少し残念だった、の方が正しいのかもしれない。
俺は同じ手順で昇降口まで戻っていった。まだ4時前。部活の開始時間にはまだ早い。
もう少しゆっくり行こう、と自分の足にリミッターをかけた。
外靴に履き替えているべく、座りながらかかとを合わせていると、途端に今日出会った彼女の姿が浮かび上がってきた。今だけじゃない。今日だけでももう何回もこんな現象が俺の脳内で起きていた。妄想と言ってしまえばオシマイだけど、なぜか彼女が脳内でリピートされ続けていて、停止ボタンが見つからないのだ。かろうじて見つけたのは一時停止ボタンだったのだけれど、決まってそれを押した場面はあの「笑顔」だった。するとまたあの感情がリピートされ、彼女に対する感情はリピートの繰り返しのせいでどんどん肥大化していく一方であった。
別の事を考えれば止まるんじゃないかと言う対抗策を引っさげ、俺はテニスコートへと戻ろうとした。ちょうど中庭の手前にある大樹の付近を歩いていると、俺は自分で自分を一時停止させた。脳内から返答を求めても一時停止は止まらない。動かないんじゃなくて、
”動けない”。
その映像は妄想なんかじゃなく、一時停止も早送りも巻き戻しもできない「彼女自身」であった。
しばらく時が止まったように感じた。紅潮し始めた顔にひんやりとした風が当たる。その風は大樹の葉を揺らし、いかにも心地よさそうな音を作り上げていた。そこで、俺の時間は再始動した。
「あの…す、すいません」
気づくと目の前には数十メートル先にいたはずの彼女がいて、俺に話しかけていた。
「は、はいっ?」
「確か2年4組の人、ですよね?私、転校してきた早川なんですが…」
もちろん、忘れるはずはないが、気づいた振りをオーバーにした。
「あ、あー!うん、どうしたの?」
「ちょっと道に迷っちゃって。職員室までどうやって行けばいいのかな、と思って」
「えーっと、職員室は…」
―――職員室は、B棟にあるよ。
そう言ってしまえば済む話だった。だがこのとき、急に一時停止した脳がとてつも無い事を、俺に言わせた。
「職員室まで遠いから俺が連れて行こうか?」
言った瞬間、顔が今までにないほど紅潮していただろうと思う。ほとんど初対面の奴にそんな事を言われたら、ほとんどの奴は引くはずなのに。
無論、彼女は困った顔を浮かべていた。しかし、右手の拳を口元にあて、目線を下に逸らすそのポーズが妙な期待を俺の中に生んだ。
「でも、時間とか大丈夫ですか?」
「ああ、全然大丈夫!気にしないでいいよ」
再び彼女は思考のポーズに入ってしまった。数秒たった後、彼女の口が開いた。
「じゃあお願いします」
俺の脳内にあった笑顔とは全く違う、自然な笑顔を向け軽く会釈をした。
返事の代わりに出た俺の笑顔はきっと、中川の格好の餌食に違いないだろう。
彼女は職員室の担任に用があったらしく、俺は職員室の外で待機していた。ここから見る限りじゃあと数分は続くはずだ。時計の針を見て、ふう、とため息をつく。
別にこの展開に持ち込んだ俺を悔やんではいない。むしろ、良くやったと思う。ため息の理由はただ一つ。
―――自分の経験不足を悔やんでいるからだ。
彼女が用事を済ませたとして、俺はその後どうすべきか。一番簡単なのはそのまま別れる事に違いない。だってこれ以上悩まなくてすむし、楽だから。
でも、それで良いワケがない、と心の奥底で自分がいる気がした。それに、朝から続いているこの妙な感じが未だに引っかかる。
そうなれば、答えは1つ。
俺は、数分前の俺の気持ちを取り戻すべく、心の巻き戻しを始めた。
彼女は室内から出てくると俺を見つけてくれて、歩み寄ってきた。そして、ありがとう、と会釈しながら言った。俺はまた笑みで返す。いや、言葉で返せなかったのだ。
「あ、あのさ」
俺は高鳴る心臓音と共に、待ち時間で作った台詞を棒読みにならないよう、あくまでも自然な感じで言おうとした。
「早川はこれからどうするの?」
「とりあえず、学校を見て回りたいかな。全部見たわけじゃないから」
「じゃあさ」
手汗でぐっしょり濡れている手を握り締めて言った。
「俺が、案内しようか。学校」
言えた―――。
全身から吹き出る汗と、緊張して振るえる手足をしながら、早川の返答を待った。思考のポーズはせず、早川は首で頷きながら答えた。
「うん。じゃあまたお願いするね」
たぶん、今の俺には何でもできるんじゃないか、と錯覚していた。
空だって飛べそうだし、このまま時間だって止められるし、この気持ちのまま死ぬ事だって、何でもできると思った。
精神状態錯乱のその状態でまともな案内が出来るかというと、答えは、ノー。でも、この原因は早川であって、情緒不安定なのは副作用のようなものなのだ。
そしてこの感覚は不思議なほど気持ちよくて、とても心地良かった。
とりあえず俺は先頭に立って、早川と一緒に校舎内を一回りして簡単な説明をした。そしてB棟から出ると、まず校庭を、次に中庭に向かった。
「ホントに広いんだね、この学校」
中庭のちょうど真ん中に差し掛かった頃、早川が呟いた。俺は頷いた。
「俺もさ、入ったばっかりの頃は迷ってばっかりで。授業に何度遅刻したか覚えてないよ」
ふと後ろを見ると早川はクスクスと笑っていた。無性に背中がむず痒くなって、前を向きなおした。
「でもこの学校、そんなに悪いにもんじゃないよ。ある程度のものは揃ってるし、先生もうるさくないし、クラスの奴はいい奴だし」
中央の大樹に到着し、俺が説明をしようとクルッと一回転した。早川は俺のすぐ後ろにいると思っていたが、4、5メートルくらい離れた所で独りうつむきながら、立っていた。
「早川…?」
俺の言葉に気づいたのか早川は顔をあげ、ゆっくりと近づいてくる。ごめんね、と一言添えて、俺の横に到達したのを確認した後、俺は、座ろうか、と言いながら大樹の下に座り込んだ。
「ごめん、疲れた?」
早川が俺の目線に合わせ座ると、ううん、と首を横に振った。
「楽しかったよ、学校案内」
「そっか」
大樹は木漏れ日が眩しいながらも、葉の揺れる音がいっそう影と風の清涼感を感じさせ、心地良い、とはまさにこの事だな、と思わせてくれる。本当に、時間を止められるリモコンがあるのなら、この時間を停止させたい。一時停止じゃなくて普通の停止でもなくて、
“永久停止”のボタンを押してやりたい。
「わたし」
まっすぐ正面を見ていた早川が、ふと呟いた。
「わたし、イギリス人と日本人のハーフなの。見た目が違うから、分かるかもしれないけど。それでね、日本人のお母さんが病気になっちゃって少し前からこっちに来たの」
彼女が話すのを、俺は横顔を見ながら聞いていた。
「日本語はお母さんに習ってて、すぐに喋れる様になった。日本にもすぐに慣れた。日本の学校も、最初は戸惑ったけど皆が優しくしてくれたの。でもね、ちょっと不安なんだ」
「不安?」
「皆と違うからわたしが浮いてそうで不安なの。皆と同じ服を着てても、同じ物を食べても、同じ言葉を話しても、やっぱり違う。それに転校なんて前の学校が始めてだったし」
早川は大きく息を吸い込むと空に向かって息をゆっくりと吐いた。
「上手くやっていけるかな、なんて思うともっと不安になっちゃって。あれだよね、これが負の連鎖、って事なのかな?」
空を仰いだ空気は気流を探せずに留まっていた。息苦しい空気が喉元を伝う。
俺は大きく息を吸って、空に吐いた。別に彼女の真似をしたワケでは無い。ただ、気流を作っただけ。
「皆と違うって事は良い事だよ。少なくとも、俺はそう思う」
疑問符が浮かんでいる早川の顔を見ながら、続けた。
「だって、オシャレしても誰ともかぶらないだろうし、誰も知らないような食べ物を食べる事があるだろうし、皆が知らないような日本語を知れるかもしれない。人間が皆同じ顔、同じ性格、同じ考え方だったらつまらないじゃんか。」
一通り言い終えた後、早川との間に静寂の時間が流れた。次の言葉を捜そうとするが、俺の言いたい事は全て言い尽くしてしまった。
「あははっ」
笑っている。早川が。
「じょーだんだよ、じょーだん」
「じ、冗談?」
それから少しの間、早川は笑い続けた。俺は状況を飲み込もうと頭の中で必死に理解させようとしたのだけれど、そのままワケがわからなくなってしまった。
「わたしなら大丈夫。そんなにムキにならないでいいよ」
早川の表情に――ほんの少しだけど不安を覚えた。
ホントに?と聞くと首を縦に頷かせる。俺はそれ以上の追及はしなかった。
彼女はスッとその場に立ち上がると、砂をはたいた。そして深く深呼吸をして、空に吐いた。
「色々とありがとうね」
俺は天を仰ぐ彼女に答えた。
「ああ、俺も、色々ありがとう」
「そういえば、名前聞いてなかったよね」
「言ってなかったっけ?ごめん」
俺もすぐに立ち上がり早川に向き合った。
「俺は『こむかい しょう』。小さいに方向の向、それに翔るで『小向 翔』」
「うん。それで、わたしの名前は」
「知ってる、ナンシー・早川・ウィリス」
ううん、と軽く首を横にやって、早川は言った。
「早川、じゃなくて ”アン” って呼んでもらいたいの。仲の良い友達にはそう呼んでもらってるから」
―――仲の、良い?
早川はそう言うと校門の方へと向かっていった。そして、振り向きざまに言った。
「じゃあね、ショー君」
「ちょ、ちょっと待てよ」
追いかけようと思った俺の足は早送りにならず、むしろ先ほど望んでいた『永久停止』状態になってしまっていた。その原因はもう分かっている。
歩いていくアンの背中を見ながら、俺は心地良いそよ風が通り過ぎるのを感じていた。